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活動報告

12月1日 特別講座「無言会話~触れる・表出する・共有する」

2019年12月20日活動報告

12月1日、国立民族学博物館准教授の広瀬浩二郎さんを招いて特別講座が開催されました。福岡女子大学に展示されている彫刻家の片山博詞さんの作品を手で触れながら鑑賞し、感じたことを粘土で表現して、ノンバーバル(非言語)で共有する実験的な試みです。
 
ワークショップに先立ち、国立民族学博物館准教授の広瀬浩二郎さんの講演がありました。
最初に広瀬さんは、「モノとの対話」について語られました。ご自身の根っこの部分には、まず自分との対話があり、自分で作品をじっくり触って鑑賞し、その自問自答の時間を経た上でのディスカッションであればいいと語りました。
 
次に広瀬さんはご自身でつくられた「琵琶なし芳一 -人間はなぜ触角を失ってしまったのか-」という詩を紹介しました。琵琶法師の「耳なし芳一」は、目の見えない主人公が聴覚を研ぎ澄ますことによって万物の存在を感じとり、芸能者としての腕を磨きます。ある時、その大切な耳が切り取られてしまいますが、芳一は耳で聴くという束縛から離れ、全身の触角(センサー)で事物の本質を掴み取る極意を身につけます。耳で聴くという常識から、耳を無くすことで、却って音を全身で捉えるということに気づく。
今回のワークショップでいうと、彫刻とは目で見るだけのものではない、手で触るだけのものではない、全身の触角で感じるものだと広瀬さんは言います。



広瀬さんは「今日のキーワードは『触角』です。」と語りました。
人間は本来、触角(センサー)を持っていたはずなのに、それを失ってしまったのではないか。江戸時代、町が明るくなり、識字率が高くなると、人間は視覚にばかり頼り、だんだん本来持っていた触角(センサー)を失ってしまっている。「耳で聴く」「目で見る」ということだけでいうと、「聴覚障害者」と「健聴者」、「見える人と見えない人」という二項対立になってしまう。人間にはセンサーがあってその使い方も千差万別である。「できる人、できない人、勝者と敗者、文明と未開、健常と障害」のように分けることによって強者が敗者を支配したり導いたりということがないことを自覚するために触角を取り戻すことが大事になってくる、と広瀬さんは言います。

今でも我々の身体の中に眠っているセンサーを、彫刻作品をさわるということを通して呼び覚まそうではないか。無言で作品と対話するときには、手で触るだけではなく全身でさわることを意識して、視覚以外のセンサーで捉えることがどこまでできるかということに挑戦する。みんなが本来触角を持っているのだというところがポイントだ、と広瀬さんは述べました。

鑑賞前に、広瀬さんが彫刻の鑑賞の仕方をデモンストレーションしました。まずは両手を使って作品の大きさを確認し、次に指先を使ってパーツごとに細部を触っていきます。広瀬さんはその一連の動きを「大きく触る」「小さく触る」と表現します。「しゃがむ、手を伸ばす、後ろにまわるなど全身を使うことで、作家の思いや作品のもつエネルギーといった内面的なものに触れることができる。あるいは、その行為そのものが作家の制作過程の追体験とも言えます」とも述べました。また、作者である片山さんからは「作品を異なる角度から鑑賞するのも彫刻ならではの楽しみ方です。別の方向から異なる触り方をすることで、それまでなかった発見があることも。」と、ご自身の体験を紹介しました。







9人の参加者はA・Bの2グループに分かれ、2人ずつ、1組3分間、会話をせずに彫刻を触って鑑賞。静まり返った図書室には、鑑賞者が彫刻を手でなぞる音が時折静かに響きます。





鑑賞後は彫刻を触って感じたことを、7分間の制限時間内に粘土を使って形にします。その後は、1作品につき2分ずつ、目隠しをしたまま別の参加者の作品を鑑賞しました。目隠しをしたまま会話をしないのがルールで、作品を両手でやさしく触れながら、彫刻の形状や質感を感じ取ります。新鮮な体験に、思わず参加者の驚きの言葉や歓声がこぼれるシーンもありました。また、最後のグループディスカッションでは、触ることによる鑑賞を活かすために、その後も彫刻を目で確認することはせずに、自分の思いやお互いの彫刻から感じたイメージなどについて意見を交わしました。









Aグループの振り返りでは、「彫刻を再現しようとした」という参加者からの声が多くありました。「触って顔の部分が分かる人と分からない人がいた」「デモンストレーションの時は具象的な作品だったが、実際に触った彫刻は抽象度が高く、印象が異なっていた。」などの意見が出ました。広瀬さんから、「片山先生の彫刻の中では形状が複雑な作品だったので、目隠しをして作品全体を描くのは難しかったかもしれない。作品の再現だったのは仕方がない。彫刻を触った後に考える時間が貴重で、その時間のあるしでは大きな違いがある。自分は待ち時間があったので、その間に整理できて再現ではない表現で作り始めたけど、7分は短かった。」とのご意見がありました。

Bグループからは、「(彫刻が)ごつごつして硬かったから色は黒っぽいのかな」という触覚から色をイメージするという感想や「触ってみてなんなく静けさというか、助けを求めているような…」という感想が出ました。作者でもある片山さんからは、ご自身の作品について「自分がつくった作品であるのに触ってみると意外と発見があった。『ここをこんなに窪ませたかな』、などと意識していなかった気づきがあり、新鮮さを感じた」などの言葉がありました。7分間で粘土を使って表すことについては「もう少しほしいけど、あの程度でいいかもしれない」「感じたことを瞬発力で表現するから時間は長い必要はない」「『つくる』というとバーバルになってしまうから、ノンバーバルでとなると7分くらいが限度かもしれない」などの意見が出ました。
 


グループディスカッション後、片山さんは次のように語りました。「今回のワークショップでは、彫刻を触れて感じたイメージを粘土で表し、無言語(ノンバーバル)の中で伝え合い、その思いを共有することができるか、というねらいがあったわけです。ここで、粘土で表現することを『つくる』という言葉で表さないことにこだわりました。なぜならば、『つくる』という行為には、まず、頭の中でイメージが湧きそのイメージを、言語を通した解釈にもとづいたモノが粘土によって現れるわけです。つまり、それはバーバルな思考にもとづいたイメージの置き換えになり、ア・プリオリなものの再現でしかなくなる危険性があるわけです。私の彫刻に触れて感じた感覚をノンバーバルの中で粘土に表してほしい、そこに新しい意味が生まれるのではないか、と期待しました。思わず手が動く、というか、頭で考えるのではなく「手が考える」とでもいうような、無意識の中から粘土による形が生まれることを表す言葉として『表出する』と表記したわけです。
 今回は、そのようなワークショップの視点を共通理解できていなかったために、触れた彫刻の再現に終わってしました方もいらっしゃいました。ノンバーバルで感じた感覚を大切にして、粘土で戯れるように表現を楽しむことができたら、と思いました。
 今日のワークショップでは、参加者として30年前に制作した彫刻を触れることで、私の中で忘れていた感覚が蘇るような経験ができました。貴重な機会を与えてくださり、ありがとうございました」。




最後に、広瀬さんは「再現」と「表現」の違いや難しさについても言及しました。「今日のワークショップは非常に実験的であり面白いところは、ずっと目隠しをして、入力~鑑賞の部分が触覚であると、アウトプット~表出の部分も触覚であると、つまり、触覚で得たものを触覚で表現するというところが特徴であるし、すごく難しいところだと思う。そのバリエーションを変えることで、今後さまざまな展開が考えられそう。非常に実験的で、可能性を感じるワークショップだった」と締めくくりました。
 
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