平成18年度後期 ドイツ文学II

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内容

著者(生涯の基本データ、文学的な位置、時代背景)

著書あらすじ

解説(参考文献などから)

自分のコメント(場合による印象的な部分の引用を含めて)

 

10月6日(1回目) 授業の流れ、ドイツ語の歴史

10月13日(2回目) Berthold Brecht(ブレヒト):Drei Groschen Oper (三文オペラ)

10月20日(3回目)Heinrich Mann(ハインリヒ・マン): Professor Unrat Video: Der blaue Engel(嘆きの天使)

10月26日(4回目)Der blaue Engel(継続)

11月2日(4回目) ジャン・パウル「気球乗りジャノッツォ」

            J.W.ゲーテ「ヘルマンとドロテーア」

             V.E.フランツ「夜と霧」

11月9日(5回目)G.ビュルガー「ほらふき男爵の冒険」

          ヘルマン・ヘッセ「春の嵐」

          クリスチャン・クラハト「ファザーランド」

11月16日(6回目)A.チャミッソー「影をなくした男」

           ヘルマン・ヘッセ「1日友」

           E.ケストナー「いっぱいの珈琲から」

11月30日(7回目)ヘルマン・ヘッセ「青春彷徨」

           E.T.A.ホフマン「砂男」

                          ジャン・パウル「陽気なヴッツ先生」

           トーマス・マン「トニオ・クレエゲル」

12月7日(8回目) T.シュトルム「みずうみ」

           ヘルマン・ヘッセ「車輪の下」

           F.カフカ「変身」

12月14日(9回目)F.カフカ「短編」

                           F.カフカ「城」

12月21日(10回目)J.W.ゲーテ「ファウスト」

            F.フーケー「ウンディーネ」

            B.シュトラウス「マルレーネの姉」

1月11日(11回目) ギュンター・グラス「ブリキの太鼓」

1月18日(12回目) ミチャエル・エンデ「鏡のなかの鏡」

            I.カント「永遠平和のために」

            T.マン「魔の山」

1月25日(13回目) G.E.レッシング「エミーリア・ガロッティ」

            C.ミュラー「母と子のナチ強制収容所」

            U.プレンツドルフ「若きWのあらたな悩み」

 

学生の発表

 

11月2日

『ヘルマンとドロテーア』  

著:ゲーテ  翻訳:国松孝二                  

                                Y.M.

著者について

この『ヘルマンとドロテーア』の著者は、ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)である。彼は、1749年に、ドイツ、フランクフルトに生まれる。ライプツィヒ大学で法律を学び、弁護士となる。1774年、ドイツ帝国最高法院における恋愛を題材にした『若きウェルテルの悩み』という作品を発表し、一躍有名となった。その後、詩集、戯曲、小説を発表した。そして彼は、ワイマル公国において、大臣、内務長官、さらには宮廷劇場総監督に任命された。彼が、着想から実に60年もの歳月を費やして完成させた作品、『ファウスト』が、1831年に発表され、今なお多くの芸術家、思想家に影響を与えているのだ。そして、その翌年の1832年、享年82歳で永眠。

 

あらすじ

 この『ヘルマンとドロテーア』という作品は、9つの巻から成り立っている。しかし、巻で分けられてはいるものの、一つの話としての一貫性がある。その巻とは、@カリーオペの巻Aテルプスィヒョーレの巻Bタリ−オの巻Cオイテルペの巻Dポリュヒュム二アの巻Eクリーオの巻Fエーラトの巻Gメルポーメネの巻Hウラーニアの巻である。@では、市場での庶民の対話や牧師との対話を中心に書かれている。庶民は、農作物の収穫に大きな影響を与える天候、自然に対する不満を口にする。これに対し、牧師は、自然は慈母が人間に与えてくれた恵みであると説き、庶民の心を動かすという話である。Aでは、青年のヘルマンの恋が描かれている。彼は、農民と結婚すると心に決め、両親に打ち明けた。しかし、彼の両親、とりわけ彼の父親は、彼女の身分の低さから、彼の結婚を決して許そうとはしなかった。引き下がろうとしなかったヘルマンに対し、父親は、勘当を言い渡し、ヘルマンが家を出て行くところで話は終わっている。Bは、Aの両親や近所の薬屋の対話により、町の人々の生活が描かれている。息子を勘当した父親に対する怒りを露にし、息子を追っていく母親。その母親の態度から、父親は女への不満を口にし、薬屋は、同調、更には自分の商売の苦悩を述べるところで終わっている。Cは、息子を追って行った母親と息子へルマンとの対話を中心に描かれている。母親は、息子の味方をする。これにより、ヘルマンは泣きながら母親に抱きつき、父に対する憤りを露にする。母親と息子は話し合い、牧師(@)の力を借りて、父親との関係修復をしようと考えたところで話は終わっている。Dでは、ヘルマン家族と牧師、ヘルマンの恋した娘の村長たちのやり取りを中心に描かれている。牧師の説得のおかげで、ヘルマンの父親の堅固な態度が少し和らいだため、ヘルマンは、娘に結婚の意志を聞きに娘の村へと向かう。そこで、娘の村長からよそ者のくせにと不当な扱いを受け、牧師がその対応をするところで終わる。Eでは、牧師と娘の村の村長の対話が中心となっている。村長が、村民以外の人を嫌悪するようになったのは、実は、フランス革命の被害を被っているからだ。しかし、牧師の話を聞くうちに、村長の心は好転し、ヘルマンは娘との結婚の実現に胸膨らませているところで終わる。Fでは、ヘルマンとその恋人(村の娘)であるドロテーアのやり取りが描かれている。久々の再会を果たしたヘルマンとドロテーアは、その再会を心から喜んでいる。そして、ヘルマンの両親の許しを請うため、彼の実家へと向かうところで終わっている。Gでは、ヘルマンの実家に至るまでの、道中での様子が描かれている。互いに愛し合っていることが分かる。そして、最後のHでは、ヘルマン、ドロテーアとヘルマンの両親のやり取りが描かれている。牧師の説得もあり、ヘルマンの両親は二人の結婚を認め、祝福する。そして2人は、周囲の祝福に包まれ、永遠の契りを結ぶという、ハッピーエンドで物語は終わっているのである。 

 

解説

 翻訳者の国松氏によると、この本の9つに渡る巻の名称は、ミューズの女神の名前から取ったものである。1巻のカリーオペとは、叙事詩の女神である。この巻がこの作品の開巻であるためだと考えられる。2巻のテルプスィーヒョレは、舞踏の女神である。ヘルマンの恋の喜びを象徴しているようだ。4巻のオイテルペも、叙事詩の女神である。これは、この巻におけるヘルマンと母の会話が、叙事詩的発想の中核を成しているからだ。6巻のクリーオは、歴史の女神である。この巻で、フランス革命が描かれていることに対応している。7巻のエーラトは、故意の女神である。ヘルマンとドロテーアの再会の喜びの象徴だ。最後の9巻のウラーニアは、天文の女神で、地球を指し示す杖を持って遠くを眺めている。この姿は、様々な波乱を乗り越えて結ばれたヘルマンとドロテーアが、希望を抱き新しい未来に進もうという結末に対応しているようだ。このように、ゲーテは、平和な生活を建設しようとする若者を、悠々たる余韻を響かせる叙事詩の中に描くことで、新しい秩序をうちたてようとしたのだ。この作品は、彼の代表作『若きウェルテルの悩み』と並んで称される、ゲーテの代表作の一つとなっている。

 

コメント

 この作品を読み終えた今、もっとも印象に残っている点は、やはり解説でも取り上げた巻の名称である。一つの作品の中で、いくつもの巻に分かれているが、それにも関わらず一つの作品として完結している。そして、この作品における巻の名称は、その巻の内容を暗示するものとなっている。巻を設けることで、一つの作品を様々な角度から描き、多くの視点を生み出しているように感じる。このような作品に出会ったことは、あまりなかったので、非常におもしろさ、新鮮さを感じ、印象深いものであった。また、この作品では、当時の時代背景、人々の生活や生活観が、よく表されている。例えば、6巻の村長の話では、先にも述べたように、当時起こっていたフランス革命と深いかかわりがあり、当時の状況を示している。このように、我々読者に、様々なことを伝えている点においても、興味そそるものであった。 

 

『気球乗りジャノッツォ』            U.M.

ジャン・パウル、古見日嘉

作者

ジャン・パウル(Jean Paul,1763321日−18251114日)

ドイツの小説家。ジャン・パウルというのは彼のペンネームであって、本名はヨハン・パウル・フリードリッヒ・リヒター(Johann Paul Friedrich Richter)という。1763年、フランケン州バイロイト候国の小村、ウンジーテルに生まれ、裕福とは言えなかったが実りのある少年時代を過ごした。14歳になると貪欲に知識を吸収していった。大学に入ってから、文学で生計を立てることを決めるが、最初の時期はなかなか売れなかった。彼が作家として名声を上げるのは「ヘルスペス」からである。この頃から、ドイツ文学を代表する作家となり、ゲーテなど、偉大な作家達とも出会うことになる。しかし、ゲーテなどとは思想上対立し、フリードリヒ・ヘルダーリンなどを慕った。その後、晩年まで名声ある作家として生涯を送った。

著作

Die unsichtbare Loge 見えない建築小屋

Hesperus oder 45 Hundsposttage ヘルスペス

Titan 巨人

Flegeljahre 腕白時代

Komet 彗星

など。

解説

『気球乗りジャノッツォ』は、ジャン・パウルの代表作『巨人』の第二巻の付録として1800年の1214日から翌年の47日のあいだに、年末年始の短い中断を除いて一気に書き上げられた。

ジャン・パウルの小説の多くには、作者自身もしばしば登場するものが多い。『ジャノッツォ』においても、主人公の日誌を、彼の親友であるグラウルが気球の遭難現場で入手して、それを出版社ジャン・パウルに委託するという操作を経ている。

この小説の原題は『気球乗りジャノッツォの渡航日誌』であるが、表題としては長すぎるため、普通略していわれているように『気球乗りジャノッツォ』とした。この日誌は、十四回の航行、及び着陸地での事件の記録という形式をとっている。旅行の乗り物として気球を選んだことによって、陸上、あるいは海上の旅行よりも空想上での立体感が加わり、上空から広範囲の地域を見下ろすという設定が成り立ち、この着想のおかげでこの紀行ははるかに視覚的多彩を獲得している。この短編は毒舌家でローマ出身のジャノッツォを主人公にして、当時のドイツの時流にさまざまな面からの因縁をつけている弾劾の書である。

内容

第一航…気球の製造法に関する、ふざけた科学的解明が始まり、それに対して出版社が機密保持の観点から横槍を入れる。

十八世紀の連中に対する攻撃こそこの作品の基調をなしているテーマであり、ここではジャノッツォが全く作者ジャン・パウルの代弁人になり切っている。

第二航…ジャノッツォは人間の不正と威張り癖に対して常に憤慨しており、また高貴な心の持ち主できわめてプライドが高い人間である。

第三航…原始状態に帰ることは貧困を意味するにほかならないことを暗示的に陰鬱な口調で述べている短い文章。

第四航…女たらしの美学部門の検閲官ファーラントが女性を誘惑している現場を気球上から発見して彼らをおどかす話。

第五航…典型的な十八世紀の中都市である凡俗さと陳腐さに満ちたミュランツの町の話。

第六航…気球から見た、地上の様々な営みの、同時並存的な雑多さを見下ろしての感慨。

第七航…全航を通じて、晴朗さと生の肯定への憧れにみちた、短いけれども印象的な章である。

第八航…主として裁判に対する風刺。

第九航…フランス軍の守備している要塞を上空からスパイをするふりをして騒がせる話。

第十一航…北方の大海と太陽に捧げられた虚無的な美しさを持つ短い詩のような文章。

第十二航…ドイツの大学、及びベルリンを中心とした当時の啓蒙主義の文筆家ニコライに対する攻撃。

第十三航…上流階級の無力症を風刺。

第十四航…気球が雷雲に捕らえられ、雷に打たれて墜落する直前までの記録。

コメント

ジーヒコーベル号はジャン・パウルの、急激に流行作家にのしあがり、死後忘れられ、また復活した彼の作家としての運命、また大空の夢や高みと、批判精神に溢れた現実との間を行ったりきたりした態度を象徴しているように感じた。

ジャノッツォは、この作品の中でジャン・パウルの心中で荒れ狂う批判を伝える代弁者となっている。

参考:

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%91%E3%82%A6%E3%83%AB

 

                      

『夜と霧』     ヴィクトール・E・フランクル    S.S.

 

『夜と霧』は、ヴィクトール・フランクル強制収容所経験に基づいた作品。凄惨極る情況において、作者の生きる意志と人間愛に包まれている。「夜と霧」は夜陰に乗じ、霧に紛れて人々が連れ去られ消された歴史的暗部を比喩した。「言語を絶する感動」と評され、日本も含め、世界で600万を超える人々に読み継がれる。生きることへの光明を、深い感銘を伴って伝えてくれる稀有な作品。『夜と霧』は邦題で、原題(ドイツ語直訳)は『強制収容所における一心理学者の体験』になる。

 

<ヴィクトール・エミール・フランクル>

1905ウィーンに生まれる。ウィーン大学在学中よりアドラーフロイトに師事し、精神医学を学ぶ。ウィーン大学医学部精神科教授、ウィーン市立病院神経科部長を兼ね、「第三ウィーン学派」として、又独自の「実存分析」を唱え、ドイツ語圏では元々知られていた。フランクルの理論にはマックス・シェーラーの影響が濃く、マルティン・ハイデッガーの体系を汲む。第二次世界大戦中、ユダヤ人であるが為にナチスによって強制収容所に送られた。この体験を『夜と霧』に著した。極限的な体験を経て生き残った人であるが、ユーモアとウィットを愛する快活な人柄であった。

 

<あらすじ>

小壮の精神医学者として属目され、ウィーンで研究を続けていた彼は、美しい妻と二人の子どもに恵まれて平和な生活を続けていた。しかしこの平和はナチスドイツのオーストリア併合以来破れてしまった。何故ならば彼はユダヤ人であったから。ただそれだけの理由で彼の一家は他の人々と共に逮捕され、あの恐るべき集団殺人の組織と機構をもつアウシュヴィッツへと送られたのである。そしてここで彼の両親、妻、子供は、あるいはガスで殺され、あるいは餓死した。彼だけがこの記録の示すような凄惨な生活を経て生きのびることができたのである。

 

<解説>

この本は、冷静な心理学者の眼でみられた限界状況における人間の姿の記録である。そしてそこには人間の精神の高さと人間の善意への限りない信仰があふれている。だがまたそれは、まだ生々しい現代史の断面であり、政治や戦争の病誌である。そしてこの病誌はまた別な形で繰り返されないと誰がいえるだろう。野上弥生子氏の評では、『この本は、 人間の極限悪を強調し、 怒りをたたきつけているが、強制収容所で教授が深い、清らかな心を持ち続けたことは、 人間が信頼できるということを示してくれた。 この怖ろしい書物にくらべては、 ダンテの地獄さえ童話的だといえるほどである。 しかし私の驚きは、 ここに充たされているような極限の悪を人間が行ったことより、かかる悪のどん底に投げこまれても、 人間がかくまで高貴に、 自由に、 麗わしい心情をもって生き得たかを思うことの方に強くあった。 その意味からフランクル数授の手記は現代のヨブ記とも称すべく、まことに詩以上の詩である。』とされている。

 

<コメント>

巻末の写真でさえも目を覆ってしまいそうになり、見るのに気が引けます。実際の様子は、とても想像出来るものではありません。犠牲者たちは、まるで物のように扱われ、もう人間の尊厳すら与えられていないかのようです。“ほんのささいな恐怖をまぬがれることができれば、わたしたちは運命に感謝した。もちろん、収容所生活のこうした惨めな「喜び」は、苦痛をまぬがれるという、ショーペンハウアーが言う否定的な意味での幸せにほかならないし、それらもここまで述べてきたように、「……よりはまだまし」という意味でしかない。積極的な喜びには、ほんの小さなものですら、ごくまれにしか出会えなかった。”という部分がありますが、大きな不幸を経験した人は、今自分がそうでないこと、それをまぬがれることでも、「まだ幸せ」と思うことが可能なのでしょう。不幸を知らない人は、「不幸でない幸せ」はわからないし、実際に不幸に出遭ってしまった時の衝撃は大きいのだと思います。“わたしたちは、まさにうれしいとはどういうことか、忘れていた。それは、もう一度、学び直さなければならない何かになってしまっていた。解放された仲間たちが経験したのは、心理学の立場から言えば、強度の離人症だった。すべては非現実で、不確かで、ただの夢のように感じられる。”これは、強制収容所の心理学の最後の部分で、収容所を解放された被収容者の心理です。強制収容所から解放された時、人々は歓喜したと普通は思いますが、収容所生活はそのような程度ではなかったようです。「うれしい」ということを忘れるということから、解放されたことに対しても、現実感の無さが表れています。そして離人症は、自分の心を守るために、現実から切り離したのかもしれません。それほど、収容所生活の現実が悲惨だったということだと思います。人が心を閉ざしたり、現実から逃避したりするのは、自分を守るためなのかもしれないと考えさせられました。

 

11月9日

「ほらふき男爵の冒険」

T.Y

 

 あらすじ

・ミュンヒハウゼン男爵自身の話

     冬のある日、ワガハイが家郷を後にして、ロシアを目指していたところ、雪が次第に強くなり、天候がとても悪くなってきた。ワガハイが馬を進めていくうちに、日が暮れてしまし、ワガハイ自身、馬の背に乗っていることにも疲れ、馬から降り、馬を雪の中から突き出ている木の先端のようなものにつなぎ、自分も熟睡した。目が覚めると、馬は、教会の塔の風見につながれてぶらさがっていた。木の先端だと思っていたものが、教会の風見だったのである。ワガハイはすぐ に短銃をかまえ、教会に向けて撃って、馬を無事に取り戻した。

     次に、ある湖で三、四十羽の野ガモに出くわしたことがある。カモ は、てんでばらばら、一発で何羽もしとめることは、ムリそうであっ たが、ワガハイの持っていたベーコンの脂身と麻のひもを使って、そのカモを捕まえることができた。

     また、最も危険な動物が、ワガハイが抵抗不可能な時に襲ってきたときもある。とても寒い冬のある日、ワガハイが何か作業をしていた時、突如恐ろしい熊がうなり声をあげてワガハイに迫ってきた。ワガハイは、樹の上に登り、防衛体制を整えたが、ナイフを樹の下に落としてしまった。ワガハイは、木の上から水をナイフの枝の先に垂らし、ナイフを手に入れることができた。そして、熊を倒すことに成功した。

・ミュンヒハウゼン男爵の海の冒険

   ワガハイ生涯最初の大旅行は、叔父と一緒に旅をした、海の旅だった。オランダ共和国から重要なる任務を託され、アムステルダムを出帆したのであった。船が薪と水を補充するため、島に到着して、二週間ほどたったある日、総督の息子と狩りに出た時の話である。ひと休みしていた時、突然、ワガハイのうしろにライオンがいて、追いかけられた。すると、前には大ワニが口をあけていた。ワガハイは逃げ場がなく、その場所に倒れてしまうと、何とライオンは勢いで大ワニの口の中に入ってしまったのである。その時、ワガハイはナイフを取り出し、ライオンの首を切り落とし、大ワニは、窒息死してしまった。ライオンの皮とワニ皮は、総督の自宅に送られ、ワガハイは、たくさんのお礼をもらった。

・男爵の物語の再開

    男爵は、気分の乗らないことは一切せず、旅においても一緒だった。しかし、ある日、男爵は旅を再会した。ジブラルタルの攻防戦が続いた時、ワガハイは、旧友エリオット将軍を陣中見舞いに行った。その時、敵がまさにワガハイらの方に照準を合わせている。ワガハイの技術で、敵の大砲とワガハイらの大砲を衝突させた。また、ある日、エリオットとの朝食中、大砲がテーブルに落ちてきた。敵のほうにもって行こうとしたところ、味方が、敵に捕まり、絞首刑にされようとしていた。そこに大砲を敵に投げ入れ、その味方を助けた。

 このようにして、男爵は、たくさんの冒険、旅をした。

解説

  この話は、ゴットフリート・アウグスト・ビュルガーの本の全訳である。この話をきちんと訳すと、『ミュンヒハウゼン

男爵の奇想天外な水路陸路の旅と遠征、愉快な冒険』となる。日本で、ほらふき男爵という場合、二つのルーツがあるようである。イギリス系のマンチョーゼンと、ドイツ系のミュンヒハウゼンである。この名前は、日本語になじみがなかったため、「ほらふき男爵」というタイトルにしたようである。また、この作品で、バラードという形式を再生させた。

作者について

  ゴットフリート・アウグスト・ビュルガーは、1747年にハルツ地方東部の寒村に生まれる。父親は、村の牧師で、代々農家だった。祖父からの援助で師範学校に通ったが、同じハレの大学に入り直し、神学を専攻していたが、捨ててしまう。また、別の大学に入り直し、法学を学ぶ傍ら、語学の研修につとめた。その後、ウスラー家の行政法官になった。が、結局、この仕事を辞めてしまい、大学の私講師として、美学および、ドイツ文体論の講義を始めた。その頃、バラード『レレーノ』を始めとする、実作と民衆詩論によって詩人としての名が高かった。1775年にドレッテと結婚したが、彼女は、亡くなり、アウグステと再婚する。『ミュンヒハウゼン』に取り組んだのは、1786年だった。1794年窮乏のうちに息をひきとる。ビュルガーの作品は、当時の詩人たちに、大きな影響を及ぼし、ヨーロッパにおける、ロマン主義運動を推進させた。

感想

  この話は、全て、男爵の自慢話であるが、淡々と書かれているので、非常に読みやすかった。また、男爵が動物達に襲われる場面では、比喩を用いたり、挿絵を使ったりと、読み手に分かりやすく伝えていると感じた。また、自分のことをワガハイと書いてあり、この物語は、自慢話だったので、とても効果的だと思った。男爵にとって、不都合な出来事が起こった時、その状況は、いかに悲惨かということが、詳しく書かれてあり、その事態を見事に乗り越えたということから、男爵は、すばらしいということが、より誇張されているようにも感じた。

 

 

フリードリヒ・フォン・シラー 『群盗』

著者 Friedrich von Schiller(フリードリヒ・フォン・シラー)1759 - 1805

西南ドイツ、ヴュルテンベルク公国の田舎町マールバッハに生まれる。劇作家、詩人、歴史学者、思想家として活躍。軍人養成学校で法律と医学を学ぶ。シェイクスピアの『オセロー』や、シュトルム・ウント・ドラングの諸作品に触発され、処女作『群盗』を発表する。これを初めとしてゲーテの『若きウェルテルの悩み』などは、1770年代のシュトゥルム・ウント・ドランク(疾風怒濤)という文学運動を発展させた。一方で歴史家としても綿密な研究を重ね、三十年戦争を舞台に『ヴァレンシュタイン』を、百年戦争を舞台に『オルレアンの乙女』の戯曲をものにした。またスイスの独立を描いて『ヴィルヘルム=テル』を著し、以来伝説の人物であった十字弓の名人テルが実在の人物とみなされるようになった。亡命生活の中で、戯曲のみならず詩・評論・歴史書も数多く著した。ゲーテと親交を結び、手を携えて「ドイツ古典主義」と呼ばれる文学様式を確立する。若い時代には肉体的自由を、晩年には精神的自由をテーマとし、彼の求めた「自由」はドイツ国民の精神生活に大きな影響を与えた。詩『歓喜に寄す』(1787)はベートーベンの第9交響曲のテクストとしても知られる。

 

【シュトゥルム・ウント・ドランク(疾風怒濤)

18世紀後半のゲーテらが興した文学革新運動。社会の旧習を主観的、感情的に激しく批判した。世俗的な道徳観念を完全否定して個性や情熱に溢れた人間像を浮き彫りにしたり、自然を尊重したりする傾向があった。

 

 

作品 『群盗』(1781)

 

 あらすじ・・・無頼の生活を懺悔する手紙を父伯爵に送った主人公カール、しかし、その返事は親子の離縁状でした。盗賊の結成をたくらむ仲間は、絶望した彼を首領にまつりあげます。しかし、すべては兄の恋人アマリアと財産を手中にしようとたくらむ次男フランツの計略だったのです。カールは自由と正義の復活という理想のもとに、盗賊として各所で不正な権力者と戦いながら、良心の苦しみにさいなまれていました。あるとき、仲間とともにひそかに故郷を訪れた彼は、弟の策略で幽閉されていた父を見つけます。そこで弟のたくらみを知ったカールは復讐を誓い立ち上がるのでした。

 

 

 

コメント

 作品について色々調べた後に読んだからなのか、非常にエネルギーに満ち溢れた作品だと感じました。やはりゲーテとともに彼が疾風怒濤の中で先導的な立場をとっただけに、社会に対する批判や主張の念が様々な箇所に込められている気がしました。

 

参考;・川上重人の文学世界   http://www.k3.dion.ne.jp/~kawakami/index.html

 

・ウィキペディア

文献; 『群盗』 シラー 作/久保 栄 訳岩波文庫 1958年

 

ヘルマン・ヘッセ 『春の嵐

 

作者について

 

 ヘルマン・ヘッセは1877年にドイツのバーデン=ベル`ベルク州のカルフに生まれました。詩人になりたいと思っていたヘッセですが、牧師の家に生まれたために新学校へ進みます。しかし、「私人になるか、でなければ、何にもなりたくない」と脱走してしまいます。その後、職を転々とした後、書店員となり、1904年に『郷愁』で成功を収めます。

  ヘッセは「春の嵐」を書いた当時三十三歳でした。彼は三度の結婚を経験している故意多き作家といえます。また、彼の作品にはしについて描かれていますが、それは彼が15歳のときに自信が自殺未遂の経験をしていたことが関係しているように思います。「春の嵐」はヘッセの妻マリー・ヌベールとの結婚生活が反映された作品ではないでしょうか。主人公がゲルトルートに思いを寄せる姿は、ヘッセがエリザベートに恋をしていたころの姿などともオーバーラップしているのかもしれません。

あらすじ                           

 主人公はクーンという音楽家。彼は裕福な家庭に生まれ、12歳の時からバイオリンを習い始めます。そして20歳を越えて、彼は将来の職業に音楽家を選択するのです。青年時代、彼には思いを寄せる少女リディがいました。ある冬の日、彼と彼女と友人達はソリで遊んでいました。その時リディに傾斜の急な斜面をソリですべるようにたきつけられたクーンは、リディに対する思いからソリでその斜面を滑りおります。しかしこの軽率なソリすべりによってクーンは足の自由を失ってしまいます。この事故以降、彼の足は常に杖を必要とすることになったのです。またこの事故は彼のリディに対する初恋をも覚まし、現実を彼につきつけるのです。傷心の彼の心を救ったのは自然の美しさと音楽でした。彼の感情の高ぶりによって関をきって溢れ出てくるメロディを彼は書き留めていきました。こうして、彼はバイオリンだけでなく作曲へも音楽の道を広げていくことになります。彼はバイオリンを極めるために音楽学校に通っていましたが、自分が書いたバイオリン・ソナタを彼の師に見せることにしました。そしてこれが、彼とオペラ歌手ムオトを結びつけます。ムオトは若手オペラ歌手の中で将来を有望視されていました。ムオトは偶然教授の部屋にあったクーンの作曲した歌を見つけて、それを気に入ったのです。こうしてクーンとムオトは知り合いになり交際が始まっていきました。ムオトは彼の誕生日パーティーにクーンを招待したり、クーンの自宅を訪ねて彼の歌を歌ったりする内に、彼らの間に友情が芽生えます。その後クーンは音楽学校を卒業し、ムオトは管弦楽団の楽長を彼に紹介します。こうして彼は無事に音楽で生計を立てられるようになりましたが、楽団でバイオリニストとして活動する一方で、クーンは作曲活動を行います。クーンは自分の作曲した作品を出来るだけムオトに見せ、歌ってもらい、時にムオトに作品を送りました。こうして二人は音楽を通してゆるぎない友情を築いていきました。           

 ある時、クーンは音楽好きのイムトルという人物の自宅の音楽会に招かれ、自分の作曲した作品を演奏するように頼まれます。イムトルには一人娘のゲルトルートがいました。イムトルもゲルトルートもクーンの作品が好きで、自宅での演奏会後も、クーンを家に招いては音楽について語ったりバイオリンを演奏したりしました。イムトルの一人娘ゲルトルートはとても軽やかな美しい歌声の持ち主で、彼女はクーンの作曲した曲を彼の伴奏で度々歌うようになっていきました。こうしてクーンとゲルトルートは互いに音楽を通して心を通わせていきました。そして彼はすらりと背の高く美しいゲルトルートに思いを寄せるようになります。また、彼女も彼の音楽を心から愛していました。しかし彼には、自分の不自由な足に彼女が同情しているのではないかなどの考えがよぎり、彼女の自分に対する気持ちを信じきれないでいました。クーンは彼女に思いを告白するものの、二人はいつまでも親しい友人として付き合っていました。それはゲルトルートが望んでいた関係だったのです。  

 その頃、クーンは作曲活動に集中するために、紹介してもらった楽団を退団し、一つのオペラを書いていました。そのオペラは、クーンがゲルトルートのもとへ通い彼女の意見なども参考に作られていき、それはクーンとゲルトルートだけの秘密のオペラでした。クーンはゲルトルートとともにオペラを作る時に春のような温かさと、感情の嵐を感じていました。

 彼女と彼の二人の間でオペラは着々と完成へ向かい、とうとう二人だけの秘密のオペラが日の目を見る時がくるのでした。クーンはオペラを作ったのは良かったのですが、どこにその作品を持ち込んだら良いかわからず、ムオトに相談をもちかけることにしたのです。クーンはオペラ歌手であるムオトに、彼の初のオペラの主役を演じてもらうつもりでした。そして彼の訪問を快く受け入れたムオトは、彼のオペラを助けました。そして、主役のムオトとゲルトルートのソプラノとを合わせてみることになり、クーンはムオトとゲルトルートを会わせたのです。クーンはずっとゲルトルートのことを思い続けていましたが、ある時ムオトの家を訪れた折り、彼女の筆跡の手紙を見つけてしまいます。そして最近の彼女の自分に対するぎこちない態度とで彼女とムオトの仲を察します。クーンはずっと思いを寄せていたゲルトルートを親友のムオトに取られてしまったことに喪失感を感じて、自分で命を絶とうとまで決心します。しかし、彼の希望は電報を配達したボーイによって打ち砕かれ、彼女とムオトの結婚を最終的には静かに受け入れるのです。

解説

 この小説のタイトルは「春の嵐」とされており、副題には「ゲルトルート」と付けられています。ヘルマン・ヘッセはこの作品の中で、ある青年の青春を描いています。この小説は主人公クーンの心情を鮮やか、かつ回想的に描写しています。ゲルトルートという女性に自分の気持ちを表現している彼の音楽を理解してもらえる主人公の喜びや感情の高揚が、幸福な春の時期のように描かれています。主人公クーンの気持ちはゲルトルートに、そして音楽に対する思いでいっぱいで、春のような温かさに包まれるのですが、そんな青春はまるで嵐のように過ぎ去ってしまうのです。そしてこれはまさにタイトルの「春の嵐」なのです。また、主人公の青春は彼が思いを寄せ続けた「ゲルトルート」の名で呼びかえることが出来るのです。

 また、作者は主人公を彼の友人ムオト、そして父の死に立ち合わせます。この「春の嵐」は不器用な主人公と友人との関係や、親と子の関係をもうまく描いているのです。親との生命のつながりの強さ、そして友人ムオトの心情を察する心。すべてが感受性豊かな青春の出来事であり、主人公の人間的様々な成長が見られる作品だと思います。大筋はあらすじのとおりですが、他にも登場人物たちの精神的弱さについても描かれています。この作品は様々な視点から何度も読み返す価値がある、すばらしい作品だと思います。

感想

 私はヘルマン・ヘッセの作品に対するイメージとして、とても憂鬱な暗いものを持っていました。しかし、今回この作品を読んで、このイメージは少し変わったように思います。「春の嵐」が青春を描いた明るい雰囲気も備えた作品だったからです。しかし、主人公の内気な、自分の不自由な足を気にして思うように行動できない様子が、この作品をただの恋愛小説に終わらせることができない要素のひとつだと思います。

 クーンの友人ムオトは、愛する妻ゲルトルートが実家で静養している間の寂しさに耐え切れず、最後には亡くなってしまいます。ムオトにとっては生きていることの方が死よりもつらかったとあるのですが、これは私たちに大きな問題を提起しているように思います。友人ムオトに、愛するゲルトルートを奪われたクーンは生きる気力を無くしたにもかかわらず、最終的には現実へと引き戻され生きていきます。二人の異なる生き様は私たちへのメッセージなのではないでしょうか?

 この小説の最後に、『私は青年時代をとがめようとは思わない。なぜなら、青春はすべての夢の中で輝かしい歌のように響いて来、青春が現実であったときよりも、今は一段と清純な調子で響くのだから。』とあります。私はこの部分に主人公の青春に対する強い思いを感じ取りました。そしてあとで思い返す時、その時を冷静に思い返し、思いを馳せられることは本当に素敵なことなのだと感じました。